哀悼 中間 健先生を偲ぶ
[ 2017/1/25 ]
かけがえのない先生が逝ってしまった。享年55歳と早すぎる旅立ちだった
決して長くない10年あまりだったが、誰よりも密度の濃い公私とものお付き合いをさせていただいた。ここに改めて故人 中間 健先生のご冥福をお祈りさせていただく。また同時に先生との大変貴重な出会いと数々の経験、財産を積ませていただいたことは私の人生観に多大な影響を及ぼしたことは明らかで、感謝申し上げたい。
私ごとになって恐縮ではあるが、日本臨床抗老化医学会(JSCAM)そしてそれを受け継ぐかたちで発足したJAAS、JAASアカデミーを運営していく中で長年に渡り私を支え、時には愚痴をこぼす私を励ましてくれたお一人だった。
2003年、日本ではまだ黎明期のアンチエイジング医療の研究会(JSCAM)が発足し数年経ったのち先生に知り合い、その後その学会を脇役の立場として支えてくれた。やがて2006年、ご一緒に韓国に飛び幹細胞治療のきっかけとなった培養細胞のバンキングの実際をつぶさにみながら、「これからは再生医療とりわけ幹細胞だ!美容医療も再生医療の時代にはいる」と帰りの車中で私に、得意げに語っていたことが懐かしい。腎臓移植の専門医、その後麻酔科、美容形成医として歩んできた先生にとって、すでにその時、自らの使命を再生医療にかけていこうとされていた。
帰国後、自ら幹細胞療法のパイオニアとして症例を重ねていく(2006年から再生医療新法の施行前2015年秋まで9年間で実に4万症例に及ぶ治療をした)。まぎれもなく日本のそしてアジアの幹細胞治療をけん引してこられた先生であった。
その後道半ばでJSCAMは解散し新たな美容アンチエイジング医療JAASに進む時も、いつも傍らにいて、新しい息吹を業界に巻き起こそう、後継の先生方を育てて行こうと意気込み励ましてくれた。それはやがて美容アンチエイジング医療の学会として現在のJAASとなっていく。
わずか数人の先生たちと共にJAASを立ち上げたとき、創設のメンバーはみな40代前半から後半の世代で、その技能と経験値は最も油の乗り切った時期だったように思う。そして業界草創の諸先輩の先生方の後継の美容医師として、良き伝統を継承しつつも、新たな時代に応えていく学会、団体のあり方を異口同音に語っていたことがつい昨日のことのように思い出す。その一人が中間先生であったことはいうまでもない。
そして、ここ最近も「若き美容アンチエイジング、再生医療の臨床医がそろそろ業界を引っ張って活躍してくれることを願ってやまない。俺たちはその後押しをしてやりたい」と中間先生は口癖のように語られていた。プライベートでも仕事でも「男気のある先生」で、そんな先生が好きだった。
先生の人となりを表現するにはあまりにも多くの形容詞がうかぶ。豪傑 豪放磊落 軽妙洒脱 豪快にして繊細 機を見て敏 そして伊達男といったところだろうか。しかし、私にとってその存在は、常にあったかい空気と安心感があり、その立ち振る舞いが、私の緊張をほぐしてくれ一緒にいると妙に和やかな気持ちになってしまう。そんな「中間ちゃん」だった。
中間先生の周りの先生やご友人、知人の方々は一様に、あの絶妙なトークと独特の間合いで発するその言葉に愛情と親しみを持ち合わせていたこと、表情おだやかに時に洒落言葉で笑いを誘う、そんな先生が大好きだったことは想像にかたくない。誰からも愛された人だった。
先生とはまた、視察やミッションを組みながらの海外視察にもよく出かけた。
20回、30回いやもっと多くの機会をもたせていただいただろう。台湾、韓国、中国の各地、ロシア、カザフスタン、カンボジア、タイなどなどである。とりわけ台湾、韓国には愛着をもち、若い頃からそしてつい最近まで世界中を飛び回っていた。私とはどこの国に行っても「俺たちはどの国に行っても違和感なく同化してしまうなあ」とつぶやき、共に人間好きであることは共通していたのかも知れない。
一方で、何十回韓国に渡航してもハングル語を覚えない私を揶揄しながら、いつも助けてくれたことも今では懐かしい(履歴でも何度か紹介したある通り韓国中央大学医学部を卒業されハングル語はネイティヴの持ち主だった)。そしてこれからも一緒に世界を旅しようと互いに話し合ってきたがもうそれも実現できない。
また、こよなくサッカーを愛し、私ともよくサッカー談義で盛り上がりながら美酒を酌み交わした。そのたびに、ブラジルW杯の観戦に共に行けなかった悔しさを、幹細胞治療の視察で一緒に二度渡航したモスクワに今度こそW杯で行こう、と約束し合ったがそれも実現できないままお亡くなりになってしまった。
ご尊父は医師そして学識者でもあられ、今は故人となられたお母様は福岡の由緒ある名家のご出身で品格あるご聡明な女性で心優しい方だったと先生からはお聞きし、先生もこよなく愛されていた。先生のお人柄、明晰な頭脳と臨床医としての技能と知識はこうしたお父様、お母様のDNAを受け継いでいたことは間違いない。
ご高齢の今なおお元気なお父様にとってご自身より先に天に召されてしまった先生ゆえ、その悲しみはいかばかりかとお察し申し上げる。心より哀惜の意を表させていただきたい。 一方、愛妻家で子煩悩であった先生にとって残された奥様とお嬢様そしてご子息のことは、さぞかし心残りであっただろうと思う。そして何よりも先生が最も頼りにされていたお姉さまにとっても、しばらくは時間が止まり悲しみの中におられることと心中お察しするばかりだが、どうか心の中にはいつも中間先生がおられ、共に笑い、助け励ましあいながらこれからもずっとご一緒に歩んでいかれることを陰ながら見守らせていただければと思う。
先生にとってもう一つの心残りは、幹細胞治療で不治の病を抱える多くの患者さんを治せると、その情熱と医師としての使命を抱きながらも志半ばで亡くなってしまったことだろう。
55年で幕を閉じた生涯だったが多分その二倍三倍の人生を駆け抜けたはずの中間 健先生。
天国に召された『中間ちゃん』にはしばし平安の時を過ごしていただき、いつの日かまた、いや早々にもこの世に舞い降りて今度は思う存分、臨床医として〝実践の再生医療〝を再びやっていただきたい。 合掌
決して長くない10年あまりだったが、誰よりも密度の濃い公私とものお付き合いをさせていただいた。ここに改めて故人 中間 健先生のご冥福をお祈りさせていただく。また同時に先生との大変貴重な出会いと数々の経験、財産を積ませていただいたことは私の人生観に多大な影響を及ぼしたことは明らかで、感謝申し上げたい。
私ごとになって恐縮ではあるが、日本臨床抗老化医学会(JSCAM)そしてそれを受け継ぐかたちで発足したJAAS、JAASアカデミーを運営していく中で長年に渡り私を支え、時には愚痴をこぼす私を励ましてくれたお一人だった。
2003年、日本ではまだ黎明期のアンチエイジング医療の研究会(JSCAM)が発足し数年経ったのち先生に知り合い、その後その学会を脇役の立場として支えてくれた。やがて2006年、ご一緒に韓国に飛び幹細胞治療のきっかけとなった培養細胞のバンキングの実際をつぶさにみながら、「これからは再生医療とりわけ幹細胞だ!美容医療も再生医療の時代にはいる」と帰りの車中で私に、得意げに語っていたことが懐かしい。腎臓移植の専門医、その後麻酔科、美容形成医として歩んできた先生にとって、すでにその時、自らの使命を再生医療にかけていこうとされていた。
帰国後、自ら幹細胞療法のパイオニアとして症例を重ねていく(2006年から再生医療新法の施行前2015年秋まで9年間で実に4万症例に及ぶ治療をした)。まぎれもなく日本のそしてアジアの幹細胞治療をけん引してこられた先生であった。
その後道半ばでJSCAMは解散し新たな美容アンチエイジング医療JAASに進む時も、いつも傍らにいて、新しい息吹を業界に巻き起こそう、後継の先生方を育てて行こうと意気込み励ましてくれた。それはやがて美容アンチエイジング医療の学会として現在のJAASとなっていく。
わずか数人の先生たちと共にJAASを立ち上げたとき、創設のメンバーはみな40代前半から後半の世代で、その技能と経験値は最も油の乗り切った時期だったように思う。そして業界草創の諸先輩の先生方の後継の美容医師として、良き伝統を継承しつつも、新たな時代に応えていく学会、団体のあり方を異口同音に語っていたことがつい昨日のことのように思い出す。その一人が中間先生であったことはいうまでもない。
そして、ここ最近も「若き美容アンチエイジング、再生医療の臨床医がそろそろ業界を引っ張って活躍してくれることを願ってやまない。俺たちはその後押しをしてやりたい」と中間先生は口癖のように語られていた。プライベートでも仕事でも「男気のある先生」で、そんな先生が好きだった。
先生の人となりを表現するにはあまりにも多くの形容詞がうかぶ。豪傑 豪放磊落 軽妙洒脱 豪快にして繊細 機を見て敏 そして伊達男といったところだろうか。しかし、私にとってその存在は、常にあったかい空気と安心感があり、その立ち振る舞いが、私の緊張をほぐしてくれ一緒にいると妙に和やかな気持ちになってしまう。そんな「中間ちゃん」だった。
中間先生の周りの先生やご友人、知人の方々は一様に、あの絶妙なトークと独特の間合いで発するその言葉に愛情と親しみを持ち合わせていたこと、表情おだやかに時に洒落言葉で笑いを誘う、そんな先生が大好きだったことは想像にかたくない。誰からも愛された人だった。
先生とはまた、視察やミッションを組みながらの海外視察にもよく出かけた。
20回、30回いやもっと多くの機会をもたせていただいただろう。台湾、韓国、中国の各地、ロシア、カザフスタン、カンボジア、タイなどなどである。とりわけ台湾、韓国には愛着をもち、若い頃からそしてつい最近まで世界中を飛び回っていた。私とはどこの国に行っても「俺たちはどの国に行っても違和感なく同化してしまうなあ」とつぶやき、共に人間好きであることは共通していたのかも知れない。
一方で、何十回韓国に渡航してもハングル語を覚えない私を揶揄しながら、いつも助けてくれたことも今では懐かしい(履歴でも何度か紹介したある通り韓国中央大学医学部を卒業されハングル語はネイティヴの持ち主だった)。そしてこれからも一緒に世界を旅しようと互いに話し合ってきたがもうそれも実現できない。
また、こよなくサッカーを愛し、私ともよくサッカー談義で盛り上がりながら美酒を酌み交わした。そのたびに、ブラジルW杯の観戦に共に行けなかった悔しさを、幹細胞治療の視察で一緒に二度渡航したモスクワに今度こそW杯で行こう、と約束し合ったがそれも実現できないままお亡くなりになってしまった。
ご尊父は医師そして学識者でもあられ、今は故人となられたお母様は福岡の由緒ある名家のご出身で品格あるご聡明な女性で心優しい方だったと先生からはお聞きし、先生もこよなく愛されていた。先生のお人柄、明晰な頭脳と臨床医としての技能と知識はこうしたお父様、お母様のDNAを受け継いでいたことは間違いない。
ご高齢の今なおお元気なお父様にとってご自身より先に天に召されてしまった先生ゆえ、その悲しみはいかばかりかとお察し申し上げる。心より哀惜の意を表させていただきたい。 一方、愛妻家で子煩悩であった先生にとって残された奥様とお嬢様そしてご子息のことは、さぞかし心残りであっただろうと思う。そして何よりも先生が最も頼りにされていたお姉さまにとっても、しばらくは時間が止まり悲しみの中におられることと心中お察しするばかりだが、どうか心の中にはいつも中間先生がおられ、共に笑い、助け励ましあいながらこれからもずっとご一緒に歩んでいかれることを陰ながら見守らせていただければと思う。
先生にとってもう一つの心残りは、幹細胞治療で不治の病を抱える多くの患者さんを治せると、その情熱と医師としての使命を抱きながらも志半ばで亡くなってしまったことだろう。
55年で幕を閉じた生涯だったが多分その二倍三倍の人生を駆け抜けたはずの中間 健先生。
天国に召された『中間ちゃん』にはしばし平安の時を過ごしていただき、いつの日かまた、いや早々にもこの世に舞い降りて今度は思う存分、臨床医として〝実践の再生医療〝を再びやっていただきたい。 合掌